[過去のニュース]華仔障害者選手応援を呼びかける


2008-03-21

アンディがオリンピックのために書いた歌「Everyone Is No.1」は、人々の心に再び感動を与え、更に多くの障害者スポーツ選手を激励し、パラリンピック2008を自信を持って迎えるための力を与えることで しょう。中国残疾人聯合會(略称:中殘聯)は、再びこの歌をバックにパラリンピックの公益広告を撮影すること決め、アンディに出演を依頼しました。アン ディの健康的なイメージで、より多くの人々が障害者選手に手を差し伸べ、障害者選手を重んじるようになることがねらいです。 パラリンピックの公益廣告の撮影場所には、北京の順義にある中國障害者オリンピック訓練基地内の室内フィールドトラック場が選ばれました。撮影当日、監督 は、共演する障害者選手をアンディに紹介しました。主役を演じるのは、かなりの経歴の持ち主で、1996-2004年の全国障害者運動会で200メートル 25秒3の記録を持ち、昨年引退したばかりのスポーツ選手、宋晨濤です。最愛のフィールドから引退したことについて宋晨濤は、こうコメント。「今回の北京 パラリンピックに参加できず、非常に残念です。でも、パラリンピックの公益広告のために、アンディラウと共演する機会に恵まれ、再びパラリンピックのため に力を出すことができて、障害者が苦闘のうえ目的を達成する精神について、より多くの人に理解してもらえる手助けができ、大変嬉しいです。」談笑中アン ディが、「僕の100メートルの最高記録は11秒3だよ。」と言うと、「うわー!すごい」と皆が口を揃えました。アンディはあわてて「20年前のことだけ どね。今は、13秒ぐらい。」と補足してから、宋晨濤の方を向き、「後で、あまり速く走らないで。」と冗談口調で言うのを忘れませんでした。 宋晨濤は、電車の事故で右足のすねから下を失い、パラリンピックで13年間奮闘してきました。今までの練習のプロセスを振り返り、いつも夜遅くまで練習 し、義足を脱いだら、中は血でいっぱいだったことや、痛みで眠れない夜を過ごしたことについて語りました。そのころは、経費が足りず、運動用の義足を買え なかったため、普通の義足で訓練するしかなかったのです。試合に備えて練習していたとき、義足が何度も割れたそうです。一番危険だったのは、試合の最中に 義足が突然割れたときのことです。彼は トラックに、ドシンと倒れました。後ろから走ってきた選手は、よけるのに間に合わず、身体を踏んでいきました。こ のとき以来、彼の身体にはスパイクシューズの傷跡が残りました。 世界中の人々に、障害者スポーツ選手を重んじてもらうため、監督は多様な人種(白人、黒人、黄色人種)の外国人を出演者として起用しました。撮影現場には 通訳がいるものの、プロの俳優ではない彼らは、監督が求めている演技について理解できないことが時々ありました。そんなときは、演芸の経験が比較的豊富な アンディが通訳となって、監督が求めていることを彼らに伝えました。また、室内の照明効果のため、暗くなるまで待って撮影が開始されましたが、3月初旬で 春とはいえ、北京の最低気温は、0度から零下2度前後。撮影が夜遅くにまでおよび、夜がふけるにつれ、寒さが身にしみてきました。競技場で、何度も駆け 回っての撮影でしたが、ランニングに短パン姿のアンディや出演者たちは、出演シーンの撮影が終わる度に、急いで防寒着のダウンジャケットを着ていました。 撮影は深夜2時すぎに終了。スタッフや出演者は、皆アンディと、記念写真を撮りたがりました。冷たい空気がたえずふきあれる中、ジャケットやコートを着た 人々の姿は、撮影時の出演者たちの半袖シャツに短パン姿と、強烈な対比をなしていました。この広告では、アンディは障害者には扮さず、障害者のスポーツ選 手とともに、グラウンドで走る競争します。障害者も健常者も同じだということと、オリンピックもパラリンピックも同様に素晴らしいのだということを示すた めです。 10年以上も前にアンディは香港の障害者スポーツ選手たちとつきあい始めたときに、香港の障害者体育代表団がオリンピックに参加するための経済的援助を始 めました。時間さえ許せば、アンディは必ず試合場にみずから赴き、隊員を激励してきました。そうした試合のシーンについて語るときのアンディは、いつも子 どものように、ただただ感動し、興奮します。アンディは多くの人々にとってのアイドルですが、アンディの心の中には、英雄たちがいます。それは、努力を怠 らない障害者スポーツ選手です。特に、中国の水泳選手で腕のない平泳ぎ王、何軍權がアンディの心に印象深く残っているそうです。アンディはこうコメントし ています。「いつも忘れられないのは、アテネパラリンピックの試合シーンです。あのときのパラリンピックで、初めは彼に目がとまりませんでした。でも、彼 はラストスパートをかけて、人々を仰天させました。それ以来、皆、他のスポーツ選手のことを、忘れてしまったほどです。解説員はずっと何軍權のことを解説 していました。彼は、すごい人だからです。両腕がないので、他の人よりかなり速く泳がなければ勝てないし、頭をプールの壁に打ちつけてターンしないと、泳 ぎ続けられないのです。僕は、彼をとても崇拜しています。結局、彼は一人で金メダルを4枚も獲得したんです。」障害者スポーツ選手が競技場で努力している 過程を詳細にわたって語るとき、アンディの目に涙が浮かぶのを、スタッフはいつも目にします。 この曲の公益広告の撮影依頼を引き受けたことについて、アンディは、「今回パラリンピックの公益活動ができ、しかも彼らの愛心大使にもなりました。彼らの ために、更に多くのいろいろなことができればと思っています。彼らのために書いた歌『Everyone Is No.1』では、MVを撮影し、障害者に扮しましたが、今回は彼らとともに走りました。スタッフたちと全員で雑談していたとき、不思議なことに気づいたん です。競技場で監督が、広告の撮影に出演するスポーツ選手たちを探していたときのことです。まもなく到来する盛大なイベント、パラリンピックのために、彼 らは練習していたため、僕と一緒に走るのに適した人がなかなか見つかりませんでした。皆が困り果てたとき、彼が突然現れたのです。慈善や、良い行いをする ときは、物事が順調に進むものだと感じました。今日もそうでした。長時間にわたって撮影が行われ、照明効果のため、暗くなるまで撮影開始を待たなくてはい けませんでした。今日は、昼間が特に長く、1時間以上待ち時間が延びて、やっと空がじわじわ暗くなってきたというのに、群集役の人達で不満を漏らす人は一 人もいませんでした。誰もが、依然として撮影に熱中していたのです。」アンディは笑顔で続けました。「慈善を行う人は、なかなか、かっこよく、美しくなる と、僕は思います。」この公益広告の仕事が終了したら、アンディは、まず映画の撮影に入ります。そして9月には、ファンクラブの会員をひきつれて北京を訪 れ、障害者スポーツ選手の応援をしたいと思っていると、アンディは明かしてくれました。


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